知的労働
「看護とは一体何であるのか。」
という問いは永遠に存在しますが、
「看護とは知的労働である。」
という前提条件が、今の時代に
とても大きな意味を持つと考えています。
知的労働者とは、
頭脳を資本として思考から何かを創る人
と定義されます。
ドラッガーは著書のなかで
「知的労働としての看護」について数多く言及し、
(マネジメントの父が看護に言及する時点でマジですごい!
おそらく病院のコンサル経験から生まれた思考でしょう。)
アメリカ入国ビザでも専門職(=知的労働者)として、
医師、弁護士、看護師と3つ並んで書いてあります。
一方、日本の現場では、
看護師は完全に肉体労働的な作業ですよね。
しかし、本来看護とは
「対象を包括的な視点で捉えて、
(主観や客観、身体精神社会、質や量など)
最良の問題解決シナリオを創ること」
(要するにケアプランを作る)
という頭の働きそのものであり、
決して肉体的な作業ではないのです。
つまり、
看護としての「視点と思考」が
看護を看護足らしめているです。
従って、看護は疑いようのない
「知的労働者」と定義できるのです。
私YUITOはある意味過激派なので、
医療技術的なことは、
採血にしろ、CVにしろ、OPEにしろ、
医師や看護師に関係なく、
うまい人がやればいいと考えており、
看護技術は看護の本質に
あまりインパクトをもたないと考えます。
昔からずっと
「看護は頭である。」
という思いがあるので、
看護師はベッドサイドで、
会話や身体所見、電子カルテのデータから
ケアプランを創ることに専念すべきだと考えています。
(もちろん、ケアプラン考察のために必要な
エコーや画像も自ら撮り読むべきです。)
カナダ人専門看護師や中東の看護師と議論した際も
「実際、どのシナリオを採用して介入するのか。」
というケアプランの話が9割を占めていました。
作成されたケアプランの実行は、
看護助手が担う事がほとんどです。
これが真の意味での「看護」でしょう。
看護は知的労働なので、
「情熱だけでは人を救えない。」
と自分を強く戒め、
「真の看護に必要なものは笑顔や優しさではなく、
その絶対的な知識と(思考の)技術である。」
と自分自身を律しているので、
数日おきにフライトしながら
毎日毎日たくさんの論文と幅広い本を読み
知的労働者としての自分自身を
切瑳琢磨しているのです。
日本の現場でいう看護は肉体労働であり、
ケアプランを吟味する時間もなく、
真の意味での看護と乖離しすぎています。
「知的労働としての看護」
が看護の前提条件であることを再認識すると
日本の看護の現場が少しずつ理想に近づき、
真の意味で人々のためになると確信しています。
ただ最後に明確に言える事は、
明日の看護を創るのは、
頭でっかちの私YUITOではなく、
今現場で働きつつ、その違和感を感じて
この文章を読んでいる
知的労働者としてのあなた自身なのです。
新年北日本爆走中!